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桶狹間合戰時六角氏與織田軍同盟?
http://www.yomiuri.co.jp/chubu/feature/CO022951/20170731-OYTAT50062.html
名古屋市の徳川美術館で開かれている特別展「天下人の城」(読売新聞社など主催)に出展された史料から、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人の天下人にまつわる知られざる歴史を紹介する。
1560年の桶狭間の戦いは、信長が、大軍の今川義元を倒し、天下人への足掛かりを得た戦いだ。名古屋市緑区の合戦場近くにある義元を供養する長福寺には、関連史料が多く残されている。
今回初公開されたのが「桶狭間合戦討死者書上かきあげ」という文書だ。江戸時代に書かれたものとみられ、今川軍はこの戦いで、今年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の井伊直虎の父、井伊直盛ら総勢2753人が戦死したと記載されている。一方で、織田軍の戦死者も990人余りとしている。
「興味深いのは、織田軍の戦死者のうち272人が近江国(滋賀県)の大名・六角ろっかく氏からの援軍だったと書かれていることです」と、展覧会を担当する原史彦・学芸部長代理は話す。
事実ならば、これまで知られていない信長―六角氏の「尾張・近江」同盟が結ばれていたことになる。桶狭間の戦いが、駿河・遠江とおとうみ・三河の3国の大軍に尾張1国で立ち向かった信長という構図も大きく塗り替えられる可能性がある。
◇
信長と近江の関係では、1567年に美濃(岐阜県)を平定した信長が、北近江の小谷おだに城主の浅井長政に妹・お市を嫁がせて、同盟関係を結び、翌年、南近江を支配する六角氏を倒したことが知られている。
「書上の記述自体は一部で知られていましたが、信長が敵である六角氏と同盟を結んでいるはずはないと、これまでの歴史研究で注目されず、見過ごされてきました」と原さんは説明する。
ところが、2014年、信長と六角氏が友好関係にあったことをうかがわせる書状が、熊本市で見つかった。書状は、室町幕府に仕え、江戸時代には熊本藩細川氏の家老となった米田家伝来のもの。
1566年、室町幕府最後の将軍となる足利義昭は、六角氏の支配下にある南近江に亡命していた。書状は、義昭が信長と共に上洛じょうらくするので、山城(京都府)と伊賀(三重県)の武士たちは協力するようにと要請する内容だった。しかし、その直後に六角氏が離反したため、書状は実際に出されることなく、信長の上洛作戦も幻となった。
逆に言うと、この書状が書かれた時点まで、信長と六角氏は共に義昭を助ける同盟者であったことになる。
◇
公開されている書上について、千田嘉博・奈良大教授(城郭考古学)は、信長の城の観点から注目する。
信長が桶狭間の3年後に初めて築いたのが小牧山城(愛知県小牧市)で、その4年後に岐阜城(岐阜市)に移った。
「信長と六角氏との蜜月関係が、小牧山城築城まで続いていたとすると、なぜ信長が当時最新の技術だった石垣をスムーズに築けたのか、その謎も解けます」と千田さん。小牧山城にはそれまでの尾張にはなかった石垣が使われており、近江の石工集団「穴太あのう衆」の存在が指摘されてきたが、今回の書上がその裏付けとなる可能性が出てきたのだ。
また、「小牧山城と岐阜城の石垣の積み方に違いがあって不思議に思っていました。その差は、六角氏との同盟が切れて、穴太衆の技術援助なしに、信長が独力で岐阜城の石垣を築いたためだったのかもしれません」と指摘する。
一つの古文書が考古学の成果と結びつくことで、新たな桶狭間の戦いの世界が広がろうとしている。
(岡本公樹)
東海百城ガイド50
松尾山城(岐阜県関ヶ原町松尾など)
松尾山(標高293メートル)に築かれた山城。美濃と近江の境で、麓には日本三関のひとつ不破の関があり、古代から交通の要衝だった。
1570年に浅井長政が信長を裏切った際に最前線の城として築いたとされる。しかし、信長が浅井を滅ぼし、近江の安土城に本拠を移したことで国境を守る城の意味を失い廃城となった。
その後、1600年の関ヶ原の戦いを前に、西軍の大垣城城主の伊藤盛正が曲輪くるわ、土塁や堀、枡形ますがた(出入り口)などを整備し、防御性の高い最新鋭の山城に替えた。同じ西軍だった小早川秀秋が、伊藤を追い出して入城する。現在もその当時の遺構が見られる。
◇
関ヶ原インターチェンジから車で約10分で、駐車場あり。駐車場から東海自然歩道を徒歩約45分。
2017年08月01日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
織田軍戰死兵士中有272人是六角氏的援軍
名古屋市の徳川美術館で開かれている特別展「天下人の城」(読売新聞社など主催)に出展された史料から、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人の天下人にまつわる知られざる歴史を紹介する。
1560年の桶狭間の戦いは、信長が、大軍の今川義元を倒し、天下人への足掛かりを得た戦いだ。名古屋市緑区の合戦場近くにある義元を供養する長福寺には、関連史料が多く残されている。
今回初公開されたのが「桶狭間合戦討死者書上かきあげ」という文書だ。江戸時代に書かれたものとみられ、今川軍はこの戦いで、今年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の井伊直虎の父、井伊直盛ら総勢2753人が戦死したと記載されている。一方で、織田軍の戦死者も990人余りとしている。
「興味深いのは、織田軍の戦死者のうち272人が近江国(滋賀県)の大名・六角ろっかく氏からの援軍だったと書かれていることです」と、展覧会を担当する原史彦・学芸部長代理は話す。
事実ならば、これまで知られていない信長―六角氏の「尾張・近江」同盟が結ばれていたことになる。桶狭間の戦いが、駿河・遠江とおとうみ・三河の3国の大軍に尾張1国で立ち向かった信長という構図も大きく塗り替えられる可能性がある。
◇
信長と近江の関係では、1567年に美濃(岐阜県)を平定した信長が、北近江の小谷おだに城主の浅井長政に妹・お市を嫁がせて、同盟関係を結び、翌年、南近江を支配する六角氏を倒したことが知られている。
「書上の記述自体は一部で知られていましたが、信長が敵である六角氏と同盟を結んでいるはずはないと、これまでの歴史研究で注目されず、見過ごされてきました」と原さんは説明する。
ところが、2014年、信長と六角氏が友好関係にあったことをうかがわせる書状が、熊本市で見つかった。書状は、室町幕府に仕え、江戸時代には熊本藩細川氏の家老となった米田家伝来のもの。
1566年、室町幕府最後の将軍となる足利義昭は、六角氏の支配下にある南近江に亡命していた。書状は、義昭が信長と共に上洛じょうらくするので、山城(京都府)と伊賀(三重県)の武士たちは協力するようにと要請する内容だった。しかし、その直後に六角氏が離反したため、書状は実際に出されることなく、信長の上洛作戦も幻となった。
逆に言うと、この書状が書かれた時点まで、信長と六角氏は共に義昭を助ける同盟者であったことになる。
◇
公開されている書上について、千田嘉博・奈良大教授(城郭考古学)は、信長の城の観点から注目する。
信長が桶狭間の3年後に初めて築いたのが小牧山城(愛知県小牧市)で、その4年後に岐阜城(岐阜市)に移った。
「信長と六角氏との蜜月関係が、小牧山城築城まで続いていたとすると、なぜ信長が当時最新の技術だった石垣をスムーズに築けたのか、その謎も解けます」と千田さん。小牧山城にはそれまでの尾張にはなかった石垣が使われており、近江の石工集団「穴太あのう衆」の存在が指摘されてきたが、今回の書上がその裏付けとなる可能性が出てきたのだ。
また、「小牧山城と岐阜城の石垣の積み方に違いがあって不思議に思っていました。その差は、六角氏との同盟が切れて、穴太衆の技術援助なしに、信長が独力で岐阜城の石垣を築いたためだったのかもしれません」と指摘する。
一つの古文書が考古学の成果と結びつくことで、新たな桶狭間の戦いの世界が広がろうとしている。
(岡本公樹)
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松尾山城(岐阜県関ヶ原町松尾など)
松尾山(標高293メートル)に築かれた山城。美濃と近江の境で、麓には日本三関のひとつ不破の関があり、古代から交通の要衝だった。
1570年に浅井長政が信長を裏切った際に最前線の城として築いたとされる。しかし、信長が浅井を滅ぼし、近江の安土城に本拠を移したことで国境を守る城の意味を失い廃城となった。
その後、1600年の関ヶ原の戦いを前に、西軍の大垣城城主の伊藤盛正が曲輪くるわ、土塁や堀、枡形ますがた(出入り口)などを整備し、防御性の高い最新鋭の山城に替えた。同じ西軍だった小早川秀秋が、伊藤を追い出して入城する。現在もその当時の遺構が見られる。
◇
関ヶ原インターチェンジから車で約10分で、駐車場あり。駐車場から東海自然歩道を徒歩約45分。
2017年08月01日 Copyright © The Yomiuri Shimbun
織田軍戰死兵士中有272人是六角氏的援軍
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